外交官、推理小説作家、そして東洋学者として
ファン・ヒューリックの生涯を年表風にまとめてみました。
- 1910年
陸軍中将ウィレム・ファン・ヒューリックの五男としてオランダに生まれる。
- 1915 - 23年
幼少期をジャワ・インドネシアで過ごす。
- 1929年
ライデン大学で政治学と法律学を学び、ユトレヒト大学大学院へ進学した後、中国語・日本語・サンスクリット・チベット語を修得。学位論文『馬頭明王諸説源流考』を著し、出版する。既にこの時点で論文・エッセイを十数編発表している。
- 1935年
オランダ駐日大使館員として赴任。自らの漢名を「高羅佩」とし、字を「芝臺」と決めた。この時期中国・日本において中国古書・書画等を意欲に収集し、「集義斎」と名付けた書斎に保管していた。この書斎は太平洋戦争時に失われる。また、中国で古琴を葉詩夢に学び、The Lore Of The Chinese Lute, An Essay In Ch'in Ideoligy (Tokyo,Sophia University,1940; repr.1969、邦題『琴道』)を上梓。
また、彼は書を嗜み、欠かさず練習していたという。
- 1941年
太平洋戦争勃発とともに日本を離れ、オランダ兵士として転戦。
- 1943年
駐華大使館一等書記官として重慶に赴任する。この時、オランダ大使館のタイピスト水世芳(京奉鉄路局長水鈞韻の娘、字は綺琴)と結婚する。
- 第二次世界大戦終結後
駐米オランダ大使館参事となり極東委員会(対日占領政策を協議する機関)に参加。1948年、駐日オランダ軍政治顧問として勤務する。
- 1951年以後
駐印オランダ大使館参事となる。1954年、オランダ外務省中東・アフリカ局長。1956年、ベイルートにて特命全権公使、1959年駐マラヤ連邦特命公使・大使、1963年オランダ外務省調査局長を歴任し、1965年駐日オランダ大使兼駐韓国大使として来日する。その間『秘戯図考』(『古代中国の性生活』)、『書画鑑賞彙編』、『長臂猿考』(『中国のテナガザル』)等の学術的著作、また探偵小説「ディー判事」シリーズを書き継ぐ。
その語学力は英独仏希羅など西欧諸語の他、日本語、中国語、インドネシア語、サンスクリット語、チベット語、アラビア語等十数ヶ国語に及ぶ。
- 1967年
病により一時帰国し、9月4日ハーグにて死去。57歳。
参照
『古代中国の性生活』(せりか書房、1988、松平いを子訳)
『中国のテナガザル』(博品社、1992、中野美代子・高橋宣勝訳)