越南史
中国支配編その一。
サブタイトル悪ノリ‥‥‥火サス調、短編SF、名作ドラマ、映画、花の名前。
北の国から |
ベトナム史上、直接間接に中国各王朝の支配を受けていた時代を北属期といいます。北、つまり中国はこの地域の文化・制度・言葉その他諸々を大きく変えて行きました。ベトナムの所謂『民族闘争史観』は勿論この時期をかなり否判的(批判的というにはちょっと‥‥)に扱っていて、きわどい言い方をすれば『北(中国)の支配によって北の制度・文化を押し付けられたが、我々は民族の伝統を守り通して、その良い点だけを摂取し、民族の独立のために常に努力していた』という見方らしいです。ここにも現代の影が見え隠れしてますね。ま、最近中越国境付近で交流が進展しているので、中越関係は多面的に見直されているでしょう(しているか? 期待)。
"FORGET-ME-NOT !" |
しかし、こんな教育受けてたら、そりゃ中国嫌いになるわなー。同様に敢えて国際問題にしていないけれど日本にもいろいろとね(-_-;)。二次大戦末に日本軍が根こそぎベトナム中の米を強制徴発して日本に送ったことに端を発する二百万人餓死(一説四百万、少なく見積もっても六十万人)なぁんて教科書に載ってないでしょうし、きっと。←と思っていたら載っているのもあったわ。一冊だけ。
この事件については早乙女勝元氏の詳細なルポタージュがありますのでそっちを読んでください。フランスが搾り取り、日本がとどめを打った事実が明らかにされています。しかも、ベトナムから送られた米で命をつないだ日本人も多いんだよね。私たちの祖父母や両親、そしてその命から生み出された自分たちは二百万人の犠牲の上に成り立っている。
‥‥‥しまった、話が飛んでしまった。
変化の嵐 |
さーて、本題の北属期の情勢について。旧南越の九郡(交州。うち現ベトナム領は三郡。九真郡・日南郡・交趾郡)ではラク田(諸説あり)と呼ばれる農耕形式をとっていました。そのうち地方土着の社会と、前漢の中央集権制との摩擦が生まれて行きます。秦・漢代では罪人の左遷先・流刑先であった交州はこの時代、税のほか南方特産物などを中央に納めておりました。官吏は私腹を肥やし、良吏は稀でありまして、しかも良吏だとしても彼らは大幅な漢人化を推し進めています。税なども土侯であるラク王・ラク候・ラク将を介して、つまり彼らの権威を利用して徴収していたものを、地方官の直接徴収に切り替えようとしていたのです。
人妻の復讐 |
ここで発生したのが、徴二姉妹(ハイ・バー・チュン)の蜂起。ハイは2、バーは年長や社会的地位の高い女性に対して使う人称、チュンは「徴」姓。なんか特撮みたいな音。立場の違う中国ひいては日本で『徴姉妹の「反乱」』と呼ばれるものでした。夫詩索を中国官吏に殺された徴側と、その妹徴弐はラク将勢力を瞬く間にまとめ上げ一大勢力となり、かの後漢建国の功臣馬援を派遣させるほどだったのは、まぁ有名な話ですね。ハイ・バー・チュン以外に女性ラク将は相当数いたようで北ベトナム各地にこの蜂起(起義)に関係した伝説が残っているそうです。徴二姉妹はもちろん廟にまつられて神様になっています。
女と女と墓の中 |
馬援は慣れぬ風土のなか、蜂起をやっとのことで鎮圧すると、以前の支配を復活させました。中国側の文献では地元の慣行を重んじ良政を布いたので民は馬援に心服したとあっさり書いています。が、実情は蜂起以前のようにラク将の支配を弱める政策を引き続き行っていたけれども、"軍政を布かれてひどい目に遭わなかっただけましかな"と民が安堵しただけだったようです。ともあれ、この蜂起の失敗によってラク将は没落し、引き続き漢の流刑者・土地なし農民が流入し、ベトナム社会は変質して行きます。余談ですが、馬援がこの反乱時、暑気よけに愛用し帰国時に持って帰ってきたヨク苡(ハトムギ)を、死後戦利品の着服と讒言されて、怒った光武帝に墓をあばかれたというのは結構有名な話ですね。
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