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竹帛

歴史肆 / Independence Day

越南史

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独立編。
とうとう独立です、とは言っても中国とは縁が切れるわけではありません。もっと複雑な駆け引きの始まりです。


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dot ああ、めまぐるしい

唐も末期の断末魔、五代十国いらっしゃい、という時代。ご存じ地方を掌握した節度使(藩鎮)が次々に自立していました。中央の統率力の弱まった安南も例外ではなく、節度使曲承裕(クック・トゥア・ズー)がこの地を治めます。ただし彼の地方政権は孫の曲承美(クック・トゥア・ミィ)の代に十国の一・南漢に滅ぼされてしまい、曲氏配下の武将だった楊廷芸(ヤン・ディン・ゲ)が南漢と戦い、ベトナムより追い払いました。後に彼も南漢に帰順し節度使となりましたが、今度は自分が部下の嬌公羨(キェウ・コン・ディエン)に殺される始末。嬌公羨も楊廷芸の婿の呉権(ゴー・クェン)に追い落とされた、と。ふう、ややこしい。まだまだ続くぞぉ。
嬌公羨は南漢に援軍を求め、南漢はベトナムの領有を画策して大軍を送り込みます。両軍は白藤江(バックダン・ザン)で激突しました。呉権は予め水底に鉄の杙(くい)を植えておき、江の烈しい干満の差を利用して、まず南漢軍を上流に誘い、干潮の急激な水位の低下とともに杙に乗り上げさせ追い落として大勝します。なにぶんデルタ地帯ですから真っ平ら、結構上流まで潮汐の影響が出るのですね。

白藤江という川はハイ・バー・チュンの蜂起のときといい、この南漢や、対宋・元・明の各戦役で重要なメルクマールとなる戦いが行われていました。干満の差と季節風の関係で、紅河デルタ頂点部へ、つまり水軍や陸路侵入軍への補給のために派遣された補給船団の進行に白藤江以上の条件をもったルートがなかったことが最大要因なのだそう。 こうして南漢を撃退して呉権が王位に就き、最初の独立王朝ができます。


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dot とりあえず一番目

呉権のたてた王朝は、呉朝と呼ばれます。最近の日本の学説の一つではこれを五代十国の十一国目と数えることもあります。しかし、明らかに中国の国家とは異質のものをもっていたことも確かで、王とはいっても対中国土豪連合のリーダーといった程度のものでした。その証拠に呉権の死後瞬く間に呉朝は瓦解。呉権の息子たちをはじめとする十二人の土豪(使君、スークァン)が離合集散して争う時代が到来し、この数年間は十二使君時代と呼ばれます。


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dot また内紛

さて十二使君の一人陳明公配下の丁部領(ディン・ボ・リン)が台頭し、やがて他の使君を打倒しベトナムを統一します。南漢に対しては大勝王と名乗り、国内的には皇帝に即位します。都を華閭(ホアルウ)に定め、国号は大瞿越(ダイコヴェト)としました。「大(ダイ)」と当時のベトナム語で“大”を意味する「瞿(コ)」を重ねた画期的な名前でした。

ただし、彼は苛酷な性分であったらしく、虎と鼎を人々に見せて罪を犯せば虎に食わせ、鼎で茹でるぞと脅し付けた逸話が残っています。おまけに、皇后は五人‥‥‥漢民族ではあり得ないこともやってます(中国歴代王朝では北周の宣帝とかがやってるけど彼は鮮卑の出身だし)。同じことをやった後の李朝と並んで、ここらへんが東南アジア的といわれる所以でしょう。丁部領はほぼ同時期に成立して境を接した中国宋王朝より冊封され交趾郡王となりましたが、跡目争いが起こり、彼は息子丁l(ディン・リェン)とともに暗殺されました。後継争いの実力による闘争も東南アジア王権の特徴といわれています。丁部領は後に丁先皇と謚されました。そして、この隙を狙って宋太宗はベトナム支配をねらって侯仁宝を将とした軍を投入してきます。


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dot 第二次白籐江決戦(ちなみにそんな言葉はない)

再び危機が訪れたのですが、今度は幼帝の後見人(兼皇太后の後添い)であった十道将軍黎桓(レ・ホアン)が臣下及び太后から推戴され即位、陣頭指揮をとります。これを後の黎朝と区別して前黎朝といいます。
対宋戦で黎桓は一旦降伏し、直後に宋軍を急襲し戦況は大逆転(宋軍にとってこれはペテン以外の何物でもなかったでしょうね)。そして再び白籐江にて決戦が行われ、前黎朝側が勝利しました。侯仁宝も捕殺されます。北方諸民族対策の方を重視した宋の太宗は流石に名君に数えられるだけあって、さくさくと撤退を指示し、そして使節を派遣してきた黎桓に対し安南都護・静海軍節度使に封じます。以後李朝に至るまでベトナムの皇帝は対中的にこの称号を使用しました。

でもやっぱり波乱がやってきます。黎桓こと黎大行(レ・ダイハン)皇帝の死後、兄黎竜鉞(中宗、レ・ロン・ヴィエト)を殺して帝位に即いた三子黎竜ディン(レ・ロン・ディン、“ディン”は金偏に廷の字)は贅沢三昧、刑罰苛酷、嗜虐趣味をもったベトナム史上一、二を争う正統派暗君でした。痔主であった彼は常に寝転がって政務をとったため、後代彼の治世は臥朝という身も蓋もない呼称で呼ばれます(暴飲暴食じゃあねぇ)。このやりたい放題が祟ってか、黎竜ディンは24歳で呆気なく死去してしまいました。
またもや跡目争いになりかけ、宋太宗の侵攻が記憶に新しい土豪たちは黎竜ディンの禁軍を掌握する殿前指揮使であった李公蘊(リィ・コン・ウァン)を帝位に推戴しました。こうしてやっとこさベトナム初めての長期王朝、李朝大越國が成立したのです。 時に1005年。


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