越南史
李朝大越国前編。
方便外交 |
ようやくベトナム史上初の長期政権、李朝になりました。初代はもちろん太祖(タイト)李公蘊(リィ・コン・ウァン)。母は范(ファム)氏、父は不明で僧侶という説もあります。要するによくわかんないぽっと出の人物。彼は前黎朝の女性を皇后に迎え、なんと一旦は撃退した宋へ降伏してしまいます。こうして事実上の自治を認められ、安南都護の地位を得て宋との国交を回復したのです。実をいうと、この手法は呉朝以来のもので、対中的には長く安南都護を称しています。「大越国」を公式のものとして自称したのは李朝も半ばの頃でした(「皇帝」も自称。もちろん)。
一方、太祖は南海交易に参与して地歩を固めてゆきます。僅かな居留地以外には基本的に他国人の居住を認めない鎖国体制を取りながらも、唐以来の歴史を持つ雲屯を中心に中継貿易を行っておりました。
ベトナムは以後対中的にたびたびこのようなアクロバティックな外交戦術を見せています。
雲南からの旋風 |
太祖の次はおじや兄弟らとの帝位継承争いを武力でおさえた李佛瑪(リィ・ファット・マ)が太宗(タイトン)として即位します。
ところがまたも宋との関係が悪化。頻々と宋の南部沿岸で行われるベトナム側の侵攻と略奪、そして産金地帯である雲南地方の領有をめぐる紛争が主な原因です。
当時、ベトナムの皇帝は自領及び各地の首長からの貢納や、先に述べた南海貿易が収入源でありました。貢納(「税」ではない。まさに貢ぎ物)を維持するため、財を集めて再分配するという権威付けイベントが必要だっのです。皇帝は積極的に戦争を行うことによって財を手に入れなければなりませんでした。勿論金や珍貨奇宝瑞獣(唐代は麒麟の特産地だし)、そして人間も奴婢として「財」に含まれるわけで、奴婢の供給源も誘拐・身売りの他、戦争捕虜も大きな割合を占めていました。略奪戦争の標的は貿易上のライバルでもあるチャンパ(占城)や宋の雲南・広西地域。つまり、双方ともベトナムにとっては王権にかかわる重要事だったのです。
雲南発どたばた劇 |
元々宋側についていたタイ系少数民族儂(ヌン)族の領袖儂存福が、この地帯の混乱に乗じて広源州地方を中心に、長生国という国を建てて独立したことが大混乱の始まりでした。
この反乱はベトナム側の太宗の鎮圧で儂存福は殺されますが、その息子儂知高は母親ともども落ち延びてゆきます。儂知高は成人後、現在の中越国境からややベトナム寄りの高平(カオバン)地方を中心としてベトナム・宋両国から再び独立し、大南国を号して長く両国を悩ませました。ある宋の高官など北方遼や西夏の侵攻よりも南の争乱のほうを重くみるべきだ、と上書さえしているほど。しかしヌン族の抵抗も宋側の鎮圧により終わりを告げ、儂知高は大理国へ逃竄、殺されます。
また太宗はチャンパに対し、大々的に攻勢をおこないます。チャンパの王「乍斗」ことジャヤ・シンハヴァルマン2世の軍に勝利し、その都ヴィジャヤを陥落させて王宮の妃妾女官たちを捕虜としました。枕席に侍ることを強要され、身を投げた妃がベトナム人達に神として祀られたという逸話が残っています。
太宗の死後、皇位継承抗争を勝ち残った聖宗が即位し、儂氏という緩衝がなくなった李朝と宋の摩擦が避けられなくなってゆきます。
ちょっと教科書っぽく |
李朝では聖宗(タイントン)李日尊(リィ・ニャット・トン)の治世になり、皇太子のため一柱寺(現在のチュア・モット・コット)や学問所である文廟(ヴァン・ミェウ、孔子廟)などが建立されました。これらの建造物は李朝國師寺なども含め、現代にも多少残されて観光名所になってます。またこの時代は、定期的にはないにせよ試験による官吏登用が始まりました。が、まだまだ官吏は政治的な勢力を形成するには至らず、知識の技術及び思弁は中国文化やインド文化と関係が深い僧侶が担っています。言うまでもなく、禅宗が保護され、政治的にも仏教勢力が大きな力を持っていました。
おんな太閤記? |
さて、聖宗の死後に幼帝仁宗(ニャントン)李乾徳(リィ・カン・ドゥック)が即位、もちろん幼児が政治などできるはずもないので、庶民の出という説もある生母倚蘭(イ・ラン)太后が太傅李道成(リィ・ドン・タイン)や太師李常傑(リィ・トゥオン・キェット)らと図って政治を補佐していました‥‥‥というのはちょっと正しくありません。詳しくは唯一の男児をもうけた倚蘭皇后は嫡母上楊太后を聖宗に殉死させて実権を握り、垂廉の政を布いたというのが実状のようです。太傅李道成も一旦都を追い出されています。
余談ですが、李朝は半ばまで皇后が複数存在していました。中には九人立てた強者もいます‥‥‥って李太祖李公蘊のことなのですが。とはいっても聖宗期あたりまでは皇位継承は実力で手に入れるものだったので、皇后所出の皇子であろうとも絶対的に有利な位置にあったわけではないようです。
反対に言えば息子さえ皇位に就けば一発大逆転!の地位が望めるわけで、そのよい例がもともと元妃(皇后の次の位)であった倚蘭皇后なのですね。この時期のベトナム王権については日本古代の母子共治体制と比較される試みも行われています。
そして、とうとう民族英雄の一人・李常傑が登場。
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