越南史
李朝大越国後編。
李常傑は好きな人物の一人です。物騒さが漂っているあたりがナイス(笑)。
武闘派宦官登場 |
越國公李常傑(リィ・トゥオン・キェット)!
ベトナムの救国英雄の一人に数えられる人物です。ベトナム版類書(百科事典)の『歴朝憲章類誌』によると、もともとの名を呉尚吉(ゴ・トゥオン・カット)といい、崇班郎の家に生まれ、祖父は太傅であったといいます。幼少時に姿貌秀逸なるを以て、つまり姿形が良かったために、弟とともに宦官とされ、太宗に近侍し聖宗に仕えました。成長後は李朝王宮を司る内侍省(ノイティティン)の長となり、また、数々の戦役に従軍し武人として名をなします。特に対チャンパ戦では先鋒として功を立てます。
前述したように、この時代の李朝の戦争は服属する地方首長らや廷臣への財(戦争捕虜=奴隷)の再分配が目的だったために基本的に略奪戦でしたが、彼もその路線を踏みます。
超有名人相手に、がつん、といってみました |
時に宋は神宗治下、かの王安石が新法を始めています。王安石と新法派が相当西南経営、つまり雲南の統治に積極的だったのは確かなようで、彼と新法派の主導によってヴェトナムの経略の準備が開始されました。
ところが、李朝はこれら宋の動向を察知し、水陸から先制攻撃を仕掛け、あろうことか王安石と神宗に喧嘩を売ってしまいます。そして李常傑はこの水軍を統率していました。
でもちょっち、やりすぎ? |
李朝の先制は苛烈を極め、広東の欽州・廉州、広西の(よう)州を劫掠し、捕虜を連行、十万を越える人々を殺戮しました。ベトナムから宋へ逃亡した民の返還を求め、王安石の青苗法を非難する声明を各地に張り紙するという念の入りよう。ついで李常傑は諸軍すべてを率いて宋に呼応しようとしたチャンパに遠征し、布政・地哩・麻令の三州(中部ベトナムの、ちょっと北より)を併合し、太尉の地位を得ています。どうも李常傑って極悪人にしかみえない‥‥‥(-_-)。
実は史料が |
もちろん王安石は怒ります。彼は翌年招討使郭逵におよそ五万(別の所伝では二十万強)の軍勢を与えて送り出しましたが、如月江の戦いで郭逵は敗退、続く富良江の戦いで李常傑の夜襲にあって遠征は断念されます。その富良江の戦いのとき、李朝軍へ神を祀る祠からもたらされた詩は長く人口に膾炙されました。
南國山河南帝居 (南国の山河は南帝の居)
截然分定在天書 (截然として分かち定むるは天書にあり)
如何逆虜來侵犯 (如何にして逆虜は来たりて侵犯す)
汝等行看取敗虚 (汝等行きて敗虚を看取せよ)
面白いことはこの詩が宋王朝を「逆虜」として扱っていることです。「中華」ではない「逆虜」宋。ここに中国歴代王朝を絶対としない価値観の相対化がはっきりと見て取れます。この時代、中国=「北の中華」に対し、ベトナム=「南の中華」であるという独特の「南国意識」が芽生え始めていました。
‥‥‥は余談として、実はこの戦い、大して詳細な史料があるわけではありません。中国側とベトナム側の地名に対する認識錯誤、自国に有利な事件の採用、なにより戦後仁宗が帰順を申し出てきたことが理由として挙げられます。なんとなく宋の面子は保たれ、ベトナムも幼君ということで正邪を追求されることもなく、それなりに国境を確定して利を得ます。
その後 |
李常傑は越国公という地位を得て、ついでに広大な領地をも所有し、無事余生を終えます。ここらへん、いかにも立志伝中の人っぽい。宦官なので子孫はなく、同じ宦官の弟が領地を相続しました。
ところで、彼が何故ここまで出世したのかというと、李朝の宦官が中国伝統の宦官観とは違っていたからなのです。臣下よりも僧侶と共に皇帝の側近として評価されていたわけで、官僚制がまだ未発達で、領主連合のトップという立場にすぎない李朝皇帝達にとっては僧侶や宦官の方が使役しやすかった、と。
そして、李朝は仁宗、そして神宗(タントン)の後、英宗(アイントン)に至って権臣たちの勢力が伸長し始めます。神宗の皇后と通じた権臣杜英武(サ・アイン・ヴ)、英宗と幼帝高宗を補佐した名臣蘇憲誠(ト・ヒェン・タイン)、高宗皇后譚氏の一族である譚以蒙(ダム・ディ・モン)などが名を残しています。またこのころから李朝の統率力が低下を始め、反旗を翻す地方が次々に現れます。
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