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竹帛

歴史七 / Sun Set, Sun Rise

越南史

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陳朝大越国開始編、或いは李朝大越国滅亡編。
陳朝初期名物(?)夫婦のご登場です。所謂"夫唱婦随"タイプではなく"似たもの夫婦"なあたりがイチオシ。昭皇と太宗のエピソードも短編小説の趣があります。


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dot 混乱の政局

ベトナム初の長期王朝と言われる李朝大越国にも、とうとう没落の季節がやってきました。
7代の皇帝高宗(カオトン)の頃には各地で反乱が頻発、各地で土豪が割拠しているありさま。高宗自身も困ったことに賢明とは程遠い人物でした。数少ない近臣を誅殺してしまった高宗はその近臣を支持していた勢力に都昇竜を放逐されてしまいます。

高宗の子李たん(リィ・サン。漢字では“日”を上部に“山”を下部に書く)という年若い皇太子もやはり都落ちの憂き目に遭いました。彼は紅河を下り、デルタ下流の陳氏に担がれて父親高宗を差し置き、即位します。これが李朝最期から2番目の皇帝恵宗(フエトン)です。恵宗は陳氏棟梁の次女を娶り、元妃としました。翌年高宗は崩じ、惠宗を擁した陳氏はやがて紅河流域で最大の勢力にのし上がります。


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dot 漁師、兼海商、兼海賊

さて、この陳氏という人々、先祖は中国からの移民と伝えられています。漁とともに沿海地域で貿易・運輸を営み、時には海賊行為さえ辞さない集団でした。李朝末期には組織だった一大武装勢力となっていたようです。
彼らの棟梁は陳李(チャン・リィ)、そして戦争の傷が元で死んだ陳李に代わった息子陳嗣慶(チャン・トゥ・カイン)が着実に勢力範囲を広げます。陳嗣慶は20〜30代前半の若さで死んでしまいますが、その死後は実権を握った陳嗣慶の兄陳承(チャン・トゥア)、従兄弟にあたる陳守度(チャン・トゥ・ド)らが陳氏一党を率いました。無論惠宗に嫁いだ陳元妃もいろいろと活動していたようです。惠宗の母親譚太后が陳元妃に「この賊党め」と罵った記事も見えます。


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dot 日は沈み、また昇る

一方、惠宗という人物は柔弱な性格であったようで、時々思い出したように陳氏から逃げ出しては、よりを戻すことを繰り返します。
彼には娘が2人いました。どちらも陳元妃(この頃には皇后)の産んだ娘で姉は順天公主(トゥアティエンコンチュア)、妹は昭聖公主(ティエウタインコンチュア)と号しています。『大越史記全書』によると男子のいない状態で、惠宗は暴飲を繰り返し、やがて発狂してしまいました。順天公主は既に陳承の長男陳柳(チャン・リェウ)に嫁していたため、妹の昭聖公主が昭皇(ティエウホァン)として皇位に就きます。惠宗は譲位と同時に出家し、陳守度によって昇竜城内の眞教寺に軟禁されました。
時に僅か7歳の少女皇帝でした。

昭皇は言うまでもなく、政治などできはしません。同い年である陳承の次男陳蒲(チャン・ボ)と毎夜遊び戯れていました。
ある夜、昭皇は陳蒲にたらいの水を跳ねかけます。水を滴らせる少年に少女は檳榔の布を投げよこしました。その当時、女から檳榔から作られた布を男に贈る風習があり、それは求婚を意味しています。この他愛ない小事件を知った陳守度は暴挙に出ました。自軍を率いて禁中に押し入り、門をすべて閉じさせ、昭皇から陳蒲への禅譲と婚姻を布告したのです。

かくして1225年、李朝は終焉の時を迎え、陳朝大越国が始まります。
陳蒲は陳けい(チャン・カイン。漢字では“日巨”を上部に、“火”を下部に書く)と改名して陳朝初代の皇帝となりました。廟号は太宗(タイトン)。北部ベトナムの争乱はそう簡単には治まらず、対立勢力が存在しなくなるまでにさらに10年以上の月日がかかり、なおかつ草原の馬蹄の響きが近づきつつある時代でした。地味で苦難に彩られながらも、その名にふさわしい33年+19年の52年にわたる治世が開始したのです。
翌年、陳守度は惠宗を自殺に追い込みました。


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dot 余談ですが

別の資料である『大越史略』では惠宗が陳承に相談して、直接陳蒲に禅譲したように書かれています。ですが、この史書は陳朝に書かれたものという説があります。どちらが正しいかというきちんとした判断は専門家に任せるとしても、この『大越史略』の王朝継承関係の記事だけは私は疑問に思っているので、『大越史記全書』の方の記述を採用しました。


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