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竹帛

歴史捌 / Young Men

越南史

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陳朝大越国おまけ編。ちょっと伏線っぽいけれども、おまけ。


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dot 少女は何を見た?

李朝から陳朝に替わったとはいえ、時代の流れはこの頃まだマイペースに進んでいました。各地の戦乱は太宗の治世に入っても未だ終結せず、陳氏は各地域に割拠する勢力と軍事衝突を繰り返します。
もちろん、十代にもならずに即位した太宗には政治や戦争など、まだできるはずもありません。李陳禅譲の若き立役者(数え32歳)・陳守度がこれより長い間、陳氏と陳朝を率いました。彼は惠宗の皇后だった従姉妹の陳氏(陳元妃)を妻に迎え、李氏の弾圧を開始します。民の同情を集める惠宗を自殺に追い込んだのを皮切りに、李氏の姓を“李”から“阮”へ改めさせたり、主立った李氏一族を建物の下敷きにして虐殺しています。以後ヴェトナムでは李姓はメジャーな姓からランクダウン。いやぁ、いい悪役っぷり。


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dot 大確執。

そんな陳朝では、地域勢力との戦いも一段落した頃、一悶着持ち上がりました。内紛です。
もともと太宗の実兄陳柳は弟が帝位に就いていることに不満を持っていました。陳守度や太宗は陳柳を優遇していたのですが、陳柳の要求はあくまで帝位だったようです。

そもそも、これまでの歴代王朝は、前王朝の女性を通じて王権の委譲がなされていました。相続に関する女性の立場の強さは東南アジア文化圏の影響と見られています。太宗も皇后である昭聖皇后李氏=李昭皇からの禅譲によって帝位を得ています。ただし2人の間に子供はありません。陳柳はというと、李昭皇の実姉順天公主李氏を妻に迎え、しかも男子も得ていました。

太宗が17歳の時、この不安定な状態が揺らぎます。陳守度と、もと惠宗皇后こと霊慈国母陳氏が語らって「子供がない」という理由で昭聖皇后李氏を廃立したのです。実の母親がハイティーンの娘を離婚させるというのもかなりなものですが、太宗の皇后として冊立されたのがなんと陳柳の妻・順天公主李氏でした。彼女は陳柳の子供を妊娠していながら彼の元を去り、妹の夫かつ、夫の弟にあたる男性と結婚したのです。


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dot 皇帝、家出す。

この皇后交代劇に、妻に去られた陳柳は反乱を起こします。皇位は武力で勝ち取るという、東南アジア的な考え方も大きな要因だったでしょう。しかし一方の当事者たる太宗はこのとき帝位に嫌気が差したか、都昇竜をこっそり抜け出て家出を敢行したのです。彼は旧知の僧を頼り、寺に隠りましたが、陳守度は太宗の出奔を知り、軍を率いてその寺まで追いかけ、宮廷に戻るよう要請します。若者らしくごねた太宗も結局説得に応じ、ようやく昇竜に戻りました。
その間、一方の陳柳は自らの勢力さえ支えきれずに自壊していました。陳柳は太宗と会見し、降伏します。太宗は激怒する陳守度を抑えて陳柳を許しました。陳柳は紅河デルタ北西部に広大な領地を与えられます。以後陳柳は安生王と呼ばれました。以後、暫く政情は安定します。


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dot 英雄、うれしはずかし鮮烈(?)デビュー。

さて、太宗の治世も20年以上を過ぎたある正月。一人の若者が大騒ぎを起こしました。
彼は結婚が間近な公主を奪ったのです。しかも、現場は婚約者の父親の邸。婚約者父子からリンチを受けかねないと若者を案じた養母が弟の皇帝に直訴してことが露見。皇帝は仕方なく公主の嫁ぎ先を若者に変更し、婚約者とその父には結納金返却と共に広大な土地が賠償されました。若者ははかくして妻天城長公主を迎えます。

彼の名前は安生王の子陳國峻。後に興道(フンダオ)の王号を得て、後に対モンゴル戦の英雄・陳興道として名を残すこととなります。
それにしても、いきなり夜に忍んで伴侶をゲッチュした歴史人物は珍しいでしょう。また、天城長公主の方の意見も聞きたいところ(いとこ同士なので面識は有ったでしょうが)
兎に角、この夫婦の間には何人も子供ができて、うち一人が陳朝3代目・仁宗の皇后となり、対モンゴル戦終結の僅か数ヶ月後に天城長公主が死去していることが記録に残っています。
草原の馬蹄の響きはすぐそこまで迫っています‥‥。


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