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竹帛

歴史玖 / First Impact

越南史

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とうとう第一次対元戦です。実はとてもあっさりした戦役。もともとおまけ的な小衝突でしたし。さりげなーく、若い者に負けじと陳守度と霊慈国母が活躍。
2001/11/11 侵入年の間違いを訂正。


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dot 疾風

時は1257年、紅河上流の雲南より疾風が到来します。
ウリャンカダイ(兀良合台)率いる南宋挟撃軍。ウリャンカダイとその子アジュ(阿朮)、徹徹都(?)の指揮するモンゴル軍2000、及びモンゴルに降伏した大理国王・段智高の軍2万人が二隊に分かれて紅河ルートと清江(現ロー河)ルートから侵入してきたのです。
彼らの目的は大越国ではなく南宋でした。南宋経略の一環として大越国を経由しようとしたのです。モンゴルによるヴェトナム攻略はその最初は、ヴェトナムそのものを対象とした行動ではありませんでした。


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dot 戦争前

1252年から翌年にかけて、クビライ及びウリャンカダイは大理を陥落させました。これによってモンゴルは北・西から南宋の包囲に成功します。
暫く後の1257年8月(9月?)、雲南に駐屯していたウリャンカダイから、降伏を勧める使者が派遣されました。南宋包囲を完成するために大越を服属させ、その領内を通過しようとしたのです。
陳朝側はこの使者を獄に繋ぎ、9〜10月にかけて若き皇族・興道王陳國峻(チャン・クォック・テュアン)に軍備を整えさせ始めます。北国(中国各王朝)や、雲南・ラオス・山地諸集団と頻繁に戦争していた歴史的な経緯から、領地を通過するだけという言い分が全く信じられなかったのかもしれません。
使者の戻らないことを知ったウリャンカダイは派兵を実行しました。


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dot 敗北

西進してきたモンゴル軍は京師昇竜(タンロン)の北、紅河と黒江(現ダー河)そして清江(現ロー河)の合流地点に到着します。その対岸には陳太宗が紅河にかかる扶鹵(フーロ)橋を断って自ら布陣し、両軍は河を隔てて対峙。背後に首都がひかえる太宗は象騎・歩卒を連ね、意気盛んでした。
が1257年12月12日〜13日、弱冠18歳のアジュの活躍によって渡河に成功し、陳朝軍とモンゴル軍が交戦します。結果、陳朝軍は敗北。陳太宗は乱戦の中で孤立し、殿軍を務める側近・黎輔陳(レ・フー・チャン、本名黎秦(レ・タン))に守られて撤退します。
その後あっという間に昇竜は陥落。当時の昇竜は「城」と言いながら城壁がない街なので、陳朝側がさっさと撤退してしまっていたのです。この空になった京師にウリャンカダイは腰を据えます。

ウリャンカダイの昇竜占領は12月14(15?)日から24日にかけて行われました。この間、モンゴル軍は「屠其城(民を殺傷した)」、「國都皆已殘毀(国都がすっかり破壊された)」(いずれも元史安南傳)とも、逆に「軍令厳粛、秋毫無犯」(元史兀良合台傳)とも記録されています。真相はどちらなのかは全く不明。後の第二次・第三次対元戦での陳朝は清野戦術を取れたのですけれど‥‥。ともあれ、22日前後に一旦陳朝がウリャンカダイに降伏を請うてきたという理由で、戦勝大宴会が催されたことは確かなようです。
一方、既に陳太宗は勝手知ったる紅河下流域へ船で移動していました。
彼は陳氏の各皇族と落ち合い、今後の方針を協議します。打ちひしがれ「宋へ亡命しましょう」と言う者もいましたが、太宗は老将陳守度に「臣が首、未だ地に至らざるに、陛下は他慮に煩うことなど無きよう」と言われ、反撃に転じることになります。


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dot 反撃‥‥というのかな ?

しかし、そのころ陳朝側は太宗と別働隊を率いていた皇太子陳威晃(チャン・ウィ・コァン。後の聖宗)らが合流し、各皇族らに兵を編成させていました。既に陳守度の妻・霊慈国母陳氏が陳朝諸将の妻子らの避難も終わらせています。ついでに霊慈国母陳氏は物資を隠匿していた家(居住用の船も)を家捜しして食料と武器を徴発していたという記録も‥‥(流石に元・海賊一族だ)。

モンゴル軍は12月24日、大宴会の後、さくさくと撤退を始めました。南宋攻略のために大越経由の道を確保するのが目的ですから、陳太宗から降伏が通知された時点でその目的は達されたのですね。しかもヴェトナムの12月は、確実に冬支度だったであろうモンゴル騎兵や大理の歩兵らにとって、かなり蒸し暑かったようです(現在ハノイの12月平均気温は17℃、雲南の冬もかなり寒いらしい)。
しかし、ハノイ近郊でモンゴル軍は降伏してきたはずの陳太宗から攻撃を受け、敗れます。陳太宗の降伏は時間稼ぎだったのです。
更に、そのまま東方へ撤退していったモンゴル軍は雲南国境に近い歸化塞でも陳朝寄りの首長何氏に敗退し、雲南に退いていきます。
こうして、たった12日間の戦争が終わりました。


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dot ここに戦争は終わり、外交が始まる

ウリャンカダイは雲南に帰還後、再び陳太宗に使者を送ります。陳朝側も国内には勝ったと言うけれど、モンゴルへは一応降伏したということにしておくという前提で折衝が始まります。が、この時にモンゴルへの朝貢内容で両者決裂。結局、昇竜を荒らされて激怒していた太宗はこの使者を縛って送還してしまいました。

明くる1258年正月、陳太宗は功績を賞し、過失を罰します。目立つところでは、かの太宗の危機を救った黎輔陳が昭聖公主(李昭皇)と結婚しました。
2月には陳太宗は皇太子陳威晃(聖宗)に退位し、上皇となりました。ここに、皇帝は実質皇太子扱い、という陳朝独特の上皇制が本格的に開始されます。
上皇となった太宗は、同年夏頃、"安南国王の長子・光ヘイ(ひらび+下に丙)"という偽名を名乗り、雲南のウリャンカダイに"光ヘイ"国王即位の使者として黎輔陳ら二人を派遣しました。
ウリャンカダイはナスールウッディーン(納速刺丁、訥刺丁。後にビルマと戦う ?)らを陳朝に派遣し、また、黎輔陳らを憲宗モンケの行在へ送ります。モンケのもとでようやく正式に朝貢の内容も確定。

ところで、上皇が偽名を使って外交交渉をするのには理由があります。それは南の中華「南国」の天子たる"皇帝"は諱(いみな、本名)を明かして"朝貢"できないから。"皇帝"が他の"皇帝"へ服属する矛盾、これを回避するトリックなのです。以後陳朝では代々、モンゴル(大元)への朝貢は偽名を名乗る上皇によってなされてゆきます。まぁ、第二次対元戦時にバレましたが。そーいうわけで、『元史』にみえる安南(=陳朝大越)国王は殆ど偽名の上に、在位年代が大きくずれていたりして。

1259年、ウリャンカダイ率いるモンゴル軍は大越を経由して南宋へ侵入しました。同年、憲宗モンケが死に、モンゴルはカーン位をめぐり暫くもめ事が続きます(〜1263年)。
1269年、大元の成祖クビライの南宋攻略が完了し、克Rの戦いによって南宋は最終的に滅亡します。この戦いの余波は陳朝大越国にも及び、旧南宋の人々が亡命し、陳朝は彼らを受け入れました(チャンパにも大分行ったらしい)。財力のある者は昇竜の回鶏坊(回はイスラーム、鶏は宋のこと)に居住して市で商い、皇族の私兵・族将になった者もいるようです。

一方、1262年、クビライはナスールウッディーンをダルガチ(達魯花赤)に任命し、虎符を与えました。以後、ことあるごとに行政権を行使しようとするダルガチ(+クビライ)と陳朝側は衝突と交渉を繰り返します。
既に、外交という長い戦いが始まっていました。


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