越南史
第二次対元戦まで完了するはずが、第二次対元戦開始時点まで書くのがやっとだったというあたり‥‥(溜息)。大元と中部ヴェトナムの一大貿易勢力チャンパの戦いは、なかなか面白いです。双方共にイスラーム商人とつながりがありますから、火器なんぞ飛び交っていました。
2002/07/21 ちょっと人名の読みとかを修正。
無理難題 |
1257年の第一次対元戦後、陳朝と大元は頻繁に交渉を行います。この両国には明らかに交渉のスタンスが違いました。
陳朝では度々財貨を送り、南宋までの各王朝に対したように国内干渉を伴わない朝貢を行なおうとします。一方、クビライ即位後の大元は陳朝に暦を送り、六ヶ条の要求を行って、実質的な属国化を企図しました。
六ヶ条の要求は (1)国主入朝、(2)国主子弟を人質とする、(3)戸籍の提示、(4)軍役の負担、(5)税賦の納入、(6)ダルガチによる統治 という陳朝の国家としての機能を全く無視するものでした。更に陳朝の国内情報を得るために大越国内に居住するイスラム商人の派遣も重ねて要求しました。これに対し、陳朝は当初、六ヶ条の要求は"ただ今鋭意検討中"と実質無視し、あるいは免除を要請し、イスラム商人も死没しており派遣できない旨(ウソだったらしい)を回答します。
無理難題 |
その間のやりとりにもトラブルは発生。1269年には大元のダルガチ張庭珍と陳太宗との間に典礼上の問題で大もめになります。張庭珍がクビライが彼を「安南の長」に任命したのだから位は自分の方が上であり、安南国王は下座にいるべきだと主張し、大越は宋と結んでいるが宋はじき滅びるだろうと脅したため、怒った太宗は衛兵で張庭珍を取り囲む事件が発生したのです。大元のたかだか一役人の態度がここまで大きければ、そりゃあ怒って当然でしょう。しかし、ぐっとこらえた陳太宗は、東西に相対して勅書の授受を行うことで張庭珍を妥協させました。その後も典礼の問題で両国の間で時折衝突が起きています。
1277年、自らの予言の通りに太宗は死去し、次世代・孫世代の活躍が本格化します。
個性豊かな陳朝の皇族達。太宗の嫡長子・聖宗(タイントン)陳威晃(チャン・ウィ・ホァン)はモンゴルとの長い戦いを指揮します。太宗上皇・聖宗を補佐したのは嫡二子・昭明大王陳光啓(チャン・クァン・ハイ)、安生王の子であるのは公然の秘密である太宗の庶長子・靖國大王陳國康(チャン・クォック・ハン)、科挙出身者のパトロンとなって帝位を窺う庶次子(長男)・昭國王陳益禝(チャン・イック・タック)。聖宗の子・仁宗(ニャントン)陳キン(チャン・カム[日偏に今])。陳朝随一の問題児(笑)・仁惠王陳慶餘(チャン・カイン・ズ)。
皇族の幕僚として地歩を固めはじめた官僚たち。
そして太宗の甥にして婿、安生王の「帝位を奪え」というトンデモな遺言に背くことにした興道王陳國峻(チャン・クォック・テュアン)。
導火線に火はついて |
世代が交代しても大元の圧力はますます強くなってゆくばかりでした。
1278年の大元の使者・礼部尚書柴椿は、強硬に六ヶ条要求の履行と国王入朝を求め、従わない場合の軍事制裁をちらつかせます。実際、柴椿の帰国後、大元では陳朝への軍事行動が討議されますが、この時のクビライは軍事行動を一旦却下し、再び使者を派遣することにしました。まず国王の入朝を、それが無理ならば代わりに財宝の献上を、それもなければ城の修復をして大元の軍を待つように、と。
陳朝は少しずつ譲歩し、象や薬などの貢物を増やしますが焼け石に水。交渉開始より二十余年、とうとう皇族の派遣を決めました。聖宗の叔父・陳遺愛を派遣することにしたのです。二十余年もよく保たせたものと言うべきでしょう。
陸の野望と海の論理 |
クビライの属するモンゴル系諸国はこの頃、アジアからヨーロッパに至る陸の貿易網を掌握していました。クビライは大陸の東をおさえ、物流コントロールを目指します。彼の次の目標は東南アジアの海洋貿易路でした。
当時の東南アジアは陸の物産を集積したり、島々に張り巡らされる貿易路をおさえた大小の国家が存在していました。ユーラシア各国の商人が活発に活動し、国家間の物的・人的交流も盛んです。
ただ、これらの国家は貿易そのものに対して国家統制を行うことはありませんでした。
海はだれのものでもあり、だれのものでもなかったのです。
しかし、クビライの大元がこの海の論理に気付いたのはこの海によって生きる国家群との戦いの後のこと‥‥。
さて、このような海の国家―――ジャワのマジャパヒト→シンガサリ王国、ミャンマーのパガン、ヴェトナム中部のチャンパ連合王国―――に対してクビライは軍事行動を起こしました。特に中国南部に直接に海路がリンクするチャンパの制圧のため、軍を送るには陳朝大越国をおさえる必要があります。
ヴェトナム陳朝との戦いはクビライにとって、チャンパ制圧の一局面の出来事でした。
一触即発 |
1281年、陳朝の皇族・陳遺愛が大元に入朝しました。クビライは聖宗が入朝しないことを理由に聖宗を国王として認めないことに決め、この陳遺愛を安南国王に任命してしまいます。大元側は陳遺愛に"安南国出征"軍と先述の柴椿を付けて大越に帰還させます。ことの重大さを恐れた陳遺愛はこの軍から脱走、先に大越国へ逃げ込みます。しかし、柴椿はこの軍を率いてそのまま大越に入国し、陳朝宮廷に騎馬で入り、太尉(宰相の一つ)でもある昭明大王陳光啓をシカトし、陳朝のメンツを片端からつぶす行為に及びます。憎まれるべき柴椿の行動は、同時に彼の命がけのパフォーマンスでもあります。何が彼をここまでさせたのか興味深いところ。この時、僧形で琵琶を鳴らした興道王陳國峻の機転(スタンドプレー?)によって、柴椿の行動に歯止めがかかり、なんとか大事に至るのは避けられました。
ちなみにこの年は、日本では大元との二回戦目・弘安の役も勃発しています。
同年、チャンパの懸命の努力にもかかわらず、大元のチャンパへの強硬姿勢がはっきりします。大元は占城行省を設立して南海諸国を威嚇するための軍(及びチャンパ経略)の準備を開始し、チャンパに派遣軍のための糧食提供を求めました。翌1282年11月、反大元に転じたチャンパが、大元が南海諸国派遣船と招降使を捕らえた事件をきっかけに両国は交戦状態に入りました。
チャンパ VS. 大元 |
唆都(占城行省左丞)率いる350艘の船団が中国南部からチャンパへ向かい、チャンパとの折衝決裂後、大元は5000の兵で攻撃を開始しました。チャンパも砦"木城"を築き、イスラム商人から仕入れた火器100余座を据え付けて抵抗。が、激戦の末、砦は陥落。チャンパ王は山地に逃亡します。
数日後、チャンパ王は大元軍に降伏を打診してきました。
戦術の定番、時間稼ぎです。
一大貿易勢力であるチャンパはこの時間稼ぎの間、国内からは兵を徴発しつつ、その通商ネットワークを活かして東南アジア各国へ援軍を求めます。やはり大元のターゲットとなっていたジャワのシンガサリ(チャンパの姻戚でもある)、カンボジア、そして陳朝大越にも援軍の要請が行われます。
チャンパは、善戦した。(ここだけプロジェクトX風に)
一方、思わしくない戦況に、1283年、クビライはチャンパ征討軍を大幅に追加します。占城行省を荊湖行省を合併し、1万5000人の兵を増員、日本遠征の帰還者等がこれに加わえられました。折角日本から生還したのに、なんとも気の毒。
陳朝に対しては、チャンパ征討のために大元は軍の通過・軍兵と輜重の提供・国主の入朝という三点セットを要求します。陳朝は海路を行く船団への援助を認めた他は断りました。こうして、この軍団は陸路ではなく海路を通ってチャンパにたどり着きますが、やがて暴風に遭い大打撃を被ります。やっぱり、気の毒な。
このような経緯の後に、1284年、クビライはとうとう陸路、乃ちヴェトナムを経由したチャンパ再攻略を断行しました。大元軍は、陳朝が大元に糧食を提供していたにもかかわらず、裏でチャンパに対して援軍を送っていた事実を把握していました。陳朝の再三に渡る事態打開の使節をものともせず、軍の通過・軍兵と輜重の提供を強硬に主張しながら、このチャンパ遠征軍はヴェトナムに侵入してきたのです。
これが、第二次対元戦のはじまりです。
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